「もしそうできるなら、広島の呉に住んでみたい」
先日、高校の頃の後輩の家に遊びに行く機会があった。
彼の家はお寺で(ということはつまり彼は坊さんをやってるんだけど)、
寺の事務所を立て替えるというので、立て替える前の建物を見学させてもらおうという趣旨だったのだ。
家に招かれ、話をしている間に、こんな話題になった。
君たちの家族は、何世代前からこの土地にきたの?
私の曾祖父さんの頃ですね。
最初からこのくらい広い土地を持ってたの?
持ってるというか・・・、正確にはこの寺を運営していくという約束のもとに住まわせてもらってるだけなので、所有地というか社屋ですね。
もしも私が寺を継がないとなったら、出てかなくちゃいけません。
彼はその話の最後に、
「坊主として生きるということは、一生ここで生きるということなんです。」
と言った。
そこでふと、家に入るときにひとこと挨拶した、彼のご両親のことが頭によぎった。
彼が坊主としてその寺を継がないということは、自分だけでなく、両親の住む場所さえもなくなってしまうということを意味するのだった。
自分だけならまだしも、そして寺を継がない他の兄弟のことだけならまだしも、人生をそこで過ごしてきた両親に、その家を出て別のところで生きるように強いるのは心情的に難しいだろうと思った。少なくとも、今からでは。
私の親がそうであるように、彼の親も、他の土地に行ってこれから新しい人生を構築するには年をとりすぎている。
これから一生、決してここから出て行かない、と決まった人生を送るというのはどんな気持ちなんだろう。
と、聞いてみたかったけれども、そこまで聞けるほど親しい仲でもないので、代わりの質問を投げた。
別の仕事をしてみたいと思ったことはないの?
そう聞くと、彼は考えるために首をかしげて視線を外し、少したってからこう答えた。
他の場所に住んでみたいと思ったことはあります。
もしそうできるなら、広島の呉に住んでみたい。
呉には何があるの?
海から山にいたる坂道があるそうです。その坂道にある家に住んでみたい。
メガネの先生のこと
小学生から短大生になるまで、1年に一人の先生についたたとして全部で14人ほどの先生を見たけれども、その中で、ものすごく記憶に残っている先生が一人だけいる。
その先生は私が5年生になったときの先生で。
その先生の言葉で印象に残っているのは、こんな話だ。
「いいですか?
先生は、君たちの話にすぐに反応できないこともあります。
それは別に君たちのことを無視しているわけじゃありません。
例えば、先生が他の生徒と話をしていたとするでしょ?
そのときに横から急に話しかけられても、先生は対応できません。
でもそれは無視してるわけじゃないんです。
順番を待っててくれれば、ちゃんと対応するからね。」
しかも先生は、その話を何度も何度も、しつこいほど繰り返し話して聞かせた。
その話だけが、すでに20年近くたっているのに、30をすぎようという私の脳味噌にまだ残っている。
生きていく上での普遍的な原理だからだと思う。
すなわち
「他人を自分の思うとおりのタイミングで動かすことは、たとえそれが先生であってもできない。」
ということ。
私たちは、相手に話を聞いてほしければ待つ必要があるのだ。
しかも、先生はそれを、何度も何度も繰り返し話して聞かせた。
それは、
「人は一度聞いただけで完全にそれを記憶してその通りに動けるほど都合よくできていない。」
ってことをわかっていたってことだ。
そして、先生が「何度も言う」という様を通じて、生徒も「大事なことは何度でも繰り返し言う必要があるんだな。」ということを学習するのだった。
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私はこういうふうになりたい。
人の多様性を認められるようになりたい。
人の不完全さを受け入れられる自分でありたい。
ちぃちゃんは、ただ、足りなかっただけ。
バイトのポスターを見て、「深夜バイト○○円」なんて、昼間より300円くらい高い時給を見ると、ちぃちゃんのことを思い出す。
ちぃちゃんは、エステに通ったり、美顔器を買うお金が欲しくて仕方なかった。
昼間の仕事で、徐々にキャリアを重ねていって、給料を増やしていく、なんて悠長なことはやっていられなかったのだ。
だって、人生はいつだって、今が一番若くてきれいな時期なんだから。
今じゃなきゃダメだった。
あとからじゃ遅いのだった。
エステや美顔器できれいになって、男の子とつき合って、結婚したかった。
今、ちぃちゃんは、望み通りに彼氏と授かり婚をして、子供を育てている。
昔、エステのチケットや美顔器を買ったときのローンや、働かない旦那さんの分まで、新聞配達のバイトをしてせっせと働いてる。
それはそれで幸せなことなのだろうけど、
私はなぜか彼女を見ているとモヤモヤする。
なぜなのだろう。よくわからない。
彼女の生き方を見ていると、本当に不器用で、もっと言うと最高に頭の悪い生き方だな。と思う。
もっと「賢く」生きられたはずなのに。と思う。
どこかの会社でキャリアを積み、順調に給料を増やしながら、仕事に自分なりのやりがいを持っている男性を見つけて結婚し、穏やかな家庭を築くことだってできたはずなのに。
(と、いうか私はそうした。)
いや、正直いってちぃちゃんはちょっと頭悪かったから、キャリアを積んで給料を増やすとかはできなかったかもしれない。
そこまで考えて、私はまた、深夜バイト募集のポスターのを見る。
私は学校でそれなりの成績をとれる脳味噌を持ってたおかげで、それなりの給料をもらえる仕事に就けた。
彼女が深夜必死に働いて得るお金の倍の給料を、私は、昼間の仕事で、キャリアや、やりがいや、その他お金に換えられない価値とともに受け取っている。
ちぃちゃんは、どんなに頑張っても私と同じ給料を稼ぐことなんてできないし、他の人と出会って結婚することも出来ないんだから、だから、彼女は彼女なりにできる最大の幸せを手に入れたんだ。ちゃんと。
と、思って納得することができずに、私はいまも考えてる。
ちぃちゃんは、ただ、足りなかっただけ。
でも、足りなかったのは、お金じゃない。
お金を稼ぐということを「実感」したい
実をいうと、お金を稼ぐってことがいまいち実感できてない。
ちなみにプログラマーやってますが。
自分で商売をやったことがないので、基本的に時給とか日給とか月給で雇われたことしかありません。
初めて仕事をしてお金をもらったのは高校生の頃のバイトで、空港近くのホテルの清掃のバイトで、時給800円でした。
夏休みの間フルに働いたので、月に10万とか12万とかだったかな。
で、月末に封筒に入ったお金を雇い主から手渡される。
この時、当然「嬉しい」とは思いましたが、同時に「自分はこのお金をもらうのにふさわしいのか?」という疑問がわきました。
というのも、仕事の評価があまりよろしくなかったからなのですね。鈍くさかったもので。
夏休みの間だけ、という約束のバイトで5人ほど入ったのですが、その5人のうち、「夏休みの後も継続してバイトをしてくれないか」と打診されたのは仕事が早くて気が利く2人だけだったのですね。
当然自分はその2人の中に入っておらず。
というか仕事して3日目くらいから、その2人と自分とにかなり違いがあるということはわかってたのですが。
それで、その時
「あぁ、自分は時給800円に見合う仕事をできなかったんだ。」
と思った記憶があります。
その後も学生の間、ケーキ屋のバイトやら、ガソリンスタンドの受付やらをやりましたが、どれも評判は激悪でした。
「時給に見合う価値を提供できていないのに、お金はとりあえずもらえる。」という経験から、私にとってお給料というのは、「価値と交換したもの」ものではなく、「雇い主が、「支払う」と約束したからもらえるもの」でした。
日本の労働者ってずいぶん法律に守られてるんだなぁ、と思ったものです。こんな役立たずな自分に対してでも、一度「払う」と約束したものを律儀に払ってくれるなんて。
もう一つ、お金を稼ぐと言うことがわからない理由は、
「なんか、このお金の出所がいまいち実感できない。」
ってこともありまして。
自分の給料って、自分の所属している団体がお客さんに価値を提供した結果、お客さんの財布の中から出てきているわけなのですが、その、「お客さん」というのがいまいち実感わかない。
自分がプログラマという職業だからかなという気もしますが、接客業のバイトやってた時も結局似たようなことは思ってました。
「今、ケーキを400円で一つ売ったけど、このお金はケーキに対して支払われたのであって、私の働きに対して支払われたわけではないよな~。」みたいな。
かといって、今私が組んでるプログラムが売れてるからそれが嬉しいかというとそれも微妙で、プログラム組むよりも、そのプログラムを買ってくれるお客さんを捜す方がずっと難しいと個人的には思ってるので、
「このお金は営業さんがひっぱってきたものであって、私の働きに対して支払われたものじゃない」
という考えが頭を離れません。
そんな非日常はこない。
私のストレス解消法は漫画喫茶にいって6時間ぶっ続けで非現実的な世界へ逃避することです。
この間は「進撃の巨人」を読みました。大変面白かったです。
で、大変面白いなとは思ったのですが、一方でこうも思ったのです。
「なんかこう、もうちょい現実的な漫画がヒットしてくれないかな。」って。
「進撃の巨人」っていうのは、どこが面白いのかというと、
かっこいいキャラクターがかっこよく巨人をなぎ倒すのを見てスカッとしたり、
巨人退治が単なる力技じゃなくて謎の解明をする必要があったり、
巨人を倒してりゃいいわけじゃなくて実は人間同士の内部にも解決すべきもめ事があったり、
な部分が魅力なんですけれども、
それって全部非日常なんですよねぇ。フィクションと言い換えてもいい。
いや、なにを当たり前のことを言ってるのよとお思いでしょうか。
いやそうなんですけど、フィクションはフィクションなんですけど、例えばアナタ、リヴァイのようになりたいな、あるいはリヴァイのような男の人カッコいいなと思いません?
でもぶっちゃけあんなやつが現実にいたらちょっと友達になれないでしょ?
あれはフィクションの中の非現実的な状況だからかっこよく見えるだけで、現実でまんまあんな言動するやついたらたんなるDV係長です。速攻で警察に逮捕されますよね。
エーなにを言いたいのかと言いますとね。
「もっと現実で重視される言動を、フィクションのなかでかっこよく描いてくれてる、そんな漫画はないのか!」
と、そう言いたいのです。
例えば、リヴァイさんが作中で自分の部下を蹴飛ばして「てめぇに必要なのは躾だ」みたいなことをいうシーンがあるんですけど、現実であんなこと言う機会って基本的に来ないじゃないですか。
現実の世界での上司と部下っていうのはもっと因縁深いもので、部下が上司を尊敬する部分というのは得てしてもっとも地味で当たり前な作業を当たり前にこなしているところだったりするんですけど、
それって漫画にしてもあまり面白くないんですよねぇ。
うーん。
例えば現実の仕事やってるときって、一番大事なのは限界を超えてまで働くことじゃなくて、自分の体調を把握して無理しないことじゃないっすか。
漫画の中だと、
「俺の人生のピークは今なんだ!」とか、
「これさえ上手くいってくれるなら、もう体がどうなってもいい!」みたいな感じで張り切っちゃったりしてて、それはそれで悪くないと思うけど、
少なくとも俺の人生のピークは10年前でしたっていうのよりもずっといいと思うけど、
かといって人生ってのは続くもんだからさ、
漫画の中だと、「今日はほどほどにしといてとっとと休もうぜ。」みたいな人はまるで適当な人扱いで、限界を超えて頑張る人が結局勝つんです。みたいな感じじゃん?
あれ本当良くないよね。
日本人のほとんどが「根性出せばどうにかなる」とか思っちゃうのは日本の漫画の影響です。
もっと、例えば人間関係とか、
「別に相性の悪い人とは相性の悪いままでよくて、無理して仲良くせんでもえーんやで。」とか
「根性じゃなくて知恵を出せ。」とかいうことを漫画で言うべきだ~!
ライくんはプログラムで動いている
実は、猫を飼い始めたばかりの頃は「なんだかプログラムで動くロボットを相手してるみたいだなぁ。」と思ってた。
猫を我が家にお迎えする前、私は猫の買い方マニュアルをものすごく熟読した。
「餌をやる時間は何時でも構いませんが、毎日同じ時間にあげるようにしてください。
何時に餌をもらえるかわからないようだと、猫はストレスを感じます。」
「毎日遊んであげてください。一人で勝手に遊んでるから大丈夫と思っていませんか? 飼い主として、猫の身体能力をきちんと把握するためにも、1日15分ほど遊んであげましょう。(以下、猫の興味を持続させるための遊び方マニュアルが続く)」
「1週間に1回はブラッシングしてあげましょう。」
「爪が伸びたら切ってあげる必要がありますが、無理矢理押さえつけることは、猫との信頼関係を損ねます。ちょっとずつ爪切りに慣らしてあげましょう。」
で、猫が来てからは毎日マニュアル通りにお世話をした。
餌をやる時間は朝と夜の6時きっかり。
遊ぶ時間は夕方の15分間きっかり。
ブラッシングも爪切りも1週間に1回。
水を飲む量もしっかり把握していた。
で、猫の方はそれに対応した反応を返すだけ。
餌が出てきたら食べる。
目の前で猫じゃらしが動いていたら飛びかかる。
ブラッシングや爪切りはそれなりに嫌がる。
全て、事前にマニュアルに書いてあったとおりの反応。
まるでJavaServletでも相手にしているような気分だった。
あるいはtomcat。あるいはJenkinsとか。
とにかく、タイマーで起動して、こちらの対応に合わせた反応を返す様は、まさに「プログラム駆動」だった。
この、猫の「ライくん」が、プログラムで動いている訳ではないようだ。とようやく実感できてきたのは、ライくんが我が家に来てから1年たとうかという頃だった。
マニュアルに載っていない行動5つ。
「その1 ライくんなりのタイミングがある。」
→たとえば冬、寒かろうと思って毛布を出してやるんだけど、出してやったそのタイミングでライくんが毛布に入ることは100%無い。ほっといたら気の向いたタイミングで入る。
なんだろう、この”その場ですぐに反応しない”ってところが、凄く生き物らしさを実感する。
人間でもそうだよね~。
「その2 いじめられてもけろっと忘れて、3秒後には甘えてくる。」
→今では、爪を切るタイミングになったら問答無用で手首をつかんで切ってる。
一度信頼関係を築いたら、週に1度、無理矢理手をつかんで爪を切ったくらいでは容易に人を嫌いになったりはしないみたいだ。でもそれは人間も同じよね。と思ったりする。
「その3 とにかくなんだかわからんけどニャーニャー鳴いて近寄ってくる。そのわりには、別になでて欲しいわけではない。」
→遊んで欲しいということのようだ。
「その4 予防注射を打った翌日に体調を崩す。」
→いつもなら朝ご飯を要求してぐるぐる歩き回りながらニャーニャー鳴くのに、その日に限ってものすごくぐったりしてた。
凄くびっくりした。ライくんの体は機械なんかじゃなく、生身の肉体なんだ、ということを凄く実感した。
「その5 遊んで欲しい気分のときと、ただ寄り添っていたい気分の時と、撫でて構って欲しい気分の時があり、当然その気分になるのが何時何分何秒なのかは決まっていない。」
→最初の1年間は、毎日決まった時間に遊んであげてたんだけど、同じように遊んであげているのに、あまり興味なさそうにしてたり、ものすごく食いつきがよかったり、あるいはいつもと挙動を変えて工夫して遊んでたりしていることがだんだんわかってきた。
当たり前だけど、気乗りするときとしない時があるんだよなぁ。タイマーじゃないんだよなぁ。だって生き物だもの、と思った。