ナスPの日記

日常生活で自分が何かを「思った」時に、「なぜそう思ったんだろう?」ということをめっちゃ考えて書きます。

「ちゃんとメールをくれるか試すつもりなの」

人を試さずともただ見定めればよいだけですよ。

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私の知人に、やたら「彼氏がメールをくれるか」にこだわる人がおりまして。
要は、メールが愛情のバロメータだと思ってるんですな。

で、その知人と話をしてる時の発言が、
「なかなかメール寄越さないから、旅行中でもちゃんとメールを暮れるか、今度試すつもりなの。」
なのですよ。

ただ、その場では、
「それってなんか違うんじゃない?」
とは言えても、具体的に「何が違うんだろ?」ってのが言えなかったので
(何しろ居酒屋で酒飲んでる時の話ですんでね。)
今更考えを整理してみようと思った次第です。

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うーん、私がそれを聞いた時の違和感の正体は、
「「試す」とかいうセリフを吐く前に、相手をきちんと見るところから始めるべきでは?」
かな。

相手がどんな人間なのか。
待ち合わせには時間通り来るのか。
遅れた時にはどんな対応をするのか。
逆に相手が遅れてきたときにはどう対応するのか。
口数が多いのか少ないのか。
メールでのコミュニケーションを得意とするのか否か。

もしメールでのコミュニケーションが苦手なタイプなのにメールを寄越すことを強要してるんだったら、それは
「私のこと好きなら苦手な事も克服できるわよね!?」
って言ってるようなもんで、相手からすれば、
「なんでこんなわけのわからんことで試されてるんやろ。
 メール以外のことで愛情表現してるつもりなんだけど。」
って思われてても文句言えないっすよ。

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うーん、言いたいこと、うまくまとまる気がしないんだけど、
人間て、単純じゃないんだけど、それでもある程度の期間の付き合いがあれば、どういう人間なのか見定める事って充分可能だと思うんだよね。

ほら、我々は一応大人ですから。
酸いも甘いも噛み分けた20数年間の経験をもってすれば、まぁそれなりの観察が可能なはずだと思うんですよ。

その観察眼を使用せずに、「メール」ごときで人を試そうとするなんて狂気の沙汰ですよ。
観察をする手間を惜しんでるよね、それ。

 

愛情を注がれているのかどうか知りたければ、次のメールの機会を待たずとも、今までの記憶を振り返るだけで十分なはず。
メール以外の手段で、本当はその人は惜しみない愛を注いでくれているのかもしれないのに。
逆に、どこか人として尊重されてないと思った記憶が出てくるのかもしれない。

それは、一緒に食事する場所を探すときのちょっとした挙動や、待ち合わせに遅れてきたときの謝罪の態度に表れるかもしれない。
どの時点の言動に表れるかなんて事前にはわからない。後から思い出して「あぁそういえば。」という点が見つかるだけ。

でも、そのためには相手のことを、興味を持って見てないといけない。

いや、どうでもいい相手のこといちいち観察する必要なんてないよ。でも一応彼氏なんでしょうよ。

「次のメールが来るかどうか試そう。」などと思っているその時点で、
「相手のことを観察するほどには興味が無い」って言ってるのと同じでしょうよ。
「でも自分には関心を払ってほしい。」って言ってるわけですよ。
「自分が相手のことをどうでもいいと思ってるのと同様に、相手にどうでもいいと思ってもらって構わない。」と思ってれば「試す」とか言わんでしょうよ。


もしかしたら、
自分がそうやって人を試そうとあれこれやっているその行動を、相手は「観ている」のかもしれないよ。